気が付いたら、アメリカで働き始めて6年以上経つ。 ときに「もう英語はすっかりペラペラなんですか?」と聞かれる。 もしかしたら、そうなのかもしれない。 だが、英語に対する劣等感が消えたことはないし、これから消えることもないと思う。
もともと海外志向が強いわけでもなく、受験以上の英語を積極的に勉強したわけでもない。 しかし、博士一年のときに初めて参加した国際学会のインパクトがすごかった。 日本のコミュニティーの閉鎖性を否応なしに突き付けられ、「受け身」のまま日本に居座ってはいけないと思い立った。 このとき25歳。 予算を確保し、アメリカに渡航したのは30歳のとき。 30歳を過ぎてから、言葉も文化も異なる国に順応するのはそれなりに辛い。
私の場合、日本から予算(海外学振)をいただいてアメリカにポスドクとして来た。 そして、2年のポスドク期間の後、幸いにも現在の職場でファカルティ―ポジション(教員)のオファーをいただけた。
当然、教員として「雇用」されたからには相応の能力が要求される。
自分の研究室の学生やポスドクの給料を支えられるだけ研究費を勝ち取らなければならない。 指導する学生とうまくコミュニケーションできなければならない。 授業をゼロから作り、平然とこなさなければならない。 これらを、Native相手に英語でやらなければいけない。 アメリカの教員としての常識を把握するには、2年というポスドク期間はあまりにも短い。
教員として働き始めた最初の一年は、数えきれないほどの「わからない」を、一つ一つ潰していく年だった。 研究費を申請する際の手続き・書類の量が段違いに多い。 そもそもどこからお金を引っ張ってくればいいのかわからない。 職員会議(教授会)に出ても、聞いたことのない英語略称が飛び回るので置いてけぼりをくらう。 そんな状況でも、論文の生産性を落としてはならない。
だが、教員としての3年目が始まる頃、仕事の感触がこれまでと異なるのを感じる。 英語でも相手の「人となり」がわかるようになる。 議論をリードすることがそれほど苦痛ではなくなる。 一つ不安が消えては新たな不安が出てくるが、とりあえず一つずつ克服することにした。
今、複数PIからなる研究プロジェクトをリードとしてプロポーザルを書いている。 20代半ばのころは、英語で予算交渉のような繊細なやりとりする羽目になるとは想像だにしなかった。 何とかなっているので、いろいろ何とかなるようだ。
「いい研究をしていれば、いつか誰かが見つけて評価してくれる」
これは正しくもあり、間違いでもある。ひと昔前と異なり、今のアカデミアは電子ジャーナルであふれかえり、無数の論文の波に否応なしに飲みこまれる。その中から真に面白い論文を見つけることは困難で、やはり「ジャーナル」の評判をベースに読むべき論文の優先順位をつけてしまう(この意味においてインパクトファクターは大事である)。こうした中、自分の仕事をより広く知ってもらうためには適切なプロモーションが必要になる。
私はアメリカに来て5年経つが、その中で一番驚いたといっても過言でないのが「グループ内引用」の多さだ。周りをみていると、次のような戦略で自分のニッチを構築し、プロモーションしているように思える。
まず、グループの旗振り役(PI)が大型予算をとり、そのたたき台として意見論文を書く。多くの場合、この段階では必ずしもアイデアを裏打ちするデータがあるわけではなく、既存の知見からうまくロジックを組み立て、意見論文をまとめているように感じる。ちなみに、こうした意見論文はプロポーザルの使いまわしであることが多い。ずるい。
グループ内から意見論文に沿った論文が次々と生まれ、最初の意見論文、先に出た論文をどんどん引用する。なんだか確立されたコンセプトのようになっていく。実のところ、この段階ではグループ内で固めているだけ。
グループ外の人間が面白いと思い、そのコンセプトに沿った論文を書く。ここで初めてそのコンセプトに市民権が付与される。
この文化を見ていると、アメリカで真に新しいアイデアを生み出している人はごくごく一部で、周りがそのアイデアに乗っかる形で潮の流れが出来ている。あくまで私見だが、日本の生態学会のほうがユニークなアイデアを見ることが多い。にも関わらず、それが大きな潮の流れを作ることはとても少ない。なぜなら、日本の研究文化はステップ1の部分が圧倒的に弱く、ステップ3で他のグループのアイデアに加担(というと言葉が悪いが)しているケースがほとんどだからだ。また、日本をフィールドとしたより関連した論文よりも、欧米の有名論文を引用しているのをよく見かける。
一方、この流れに大きなくさびを入れつつある国がある。「中国」だ。中国が科学の各分野で世界を席巻しつつあるのは周知の事実だが、これはただの数の力や偶然ではないと思う。確かな戦略がある。
2018年のアメリカ生態学会(ESA;Ecological Society of America)に参加したときのこと。ESAはいわゆるマンモス学会で、年会の参加者数は3000人を上回る。規模が大きく、研究対象も多岐にわたるので、会期中にはグループごとにMixer(懇親会)があるのが通常だ。私はAsianグループに興味があり参加してみたのだが、この時の光景がすさまじいものだった。50-70人の参加者がいるなかで、日本人は私を含めて二人1、韓国人が一人、その他はすべて中国人であった。また、その多くはアメリカで学位を取得しようとしている人、Faculty positionを得てアメリカに拠点を築いている人、中国からアメリカで活躍している中国人を「ヘッドハンティング」しようとスカウトに来ている人であった。簡単に自己紹介する中で、スカウト目的で中国から参加している人が、「我々中国はアメリカで活躍する君たちをいつでも好待遇で受け入れる準備ができている!2」とも言っていた。つまり、アメリカに人材を送り込むだけでなく、欧米につながりをもった研究者を積極的に引き込むことで、自国の活性化につなげようとしているだろう(直接聞いたわけではないので定かではないが、ほぼ間違いない)。また、研究の仕方も「チーム戦」がうまい。彼らの研究を見ていると、とにかく自国のいい研究を積極的に引用する姿勢がすごい3。最初は欧米の真似事だったかもしれないが、そこには自身の立派な哲学ができており、今では中国の戦略として確立したものになっているように感じる。
昨今、生態学の主要ジャーナルでは中国発の論文を見ない日はなくなったが、これは数の力だけで説明がつくものではない。確固たる戦略が実を結んだ結果とみたほうがいいだろう。似たようなことが他の分野でも起きているのだろうか?
日本の話に戻る。私が日本の国としての戦略にあれこれ口を出すつもりもないし、どうすればいいのかも皆目見当つかない。中国と同じことをしようとしたところで、現在の日本の大学や研究機関にそんな体力(財源)は残されていないと感じる。それを十二分に分かったうえで、ただひとつ苦言を呈するとすれば、「いい研究をしていれば、いつか誰かが見つけてくれる」が成り立つのはマジョリティーに属している場合のみ、という事実をあまりに多くの人が認知していないことだ。欧米、そして中国が研究のマジョリティーとなりつつある中で、極東の研究者の「いい研究」が知れ渡る機会は想像以上に限られている。個人でできることとすれば、とにかく海外大学も含めてセミナーで飛び回り、積極的に自分の仕事を売ることだろう。それが日本の研究者コミュニティにとってどれほど意味があるのかわからないが、国として学術がすさんだ状況を見る限り、(若手は)個人としてあがく以外に方法はない。
日本の平均的な研究力・創造力はアメリカと比べてそん色がないどころか、大きく上回っているとすら感じる。しかし現状では、多くの欧米人はそんなことは知る由もなく定年を迎えるのだろう。それをなんとももどかしく感じる。
もう少しいたかもしれない。けど確実に5人未満だった。↩︎
まるでマンガのセリフである。もちろん意訳。↩︎
これを真似て、私はできるだけ日本のいい研究を引用するようにしています。↩︎
6/16/24 the content of this post is officially out in Population Ecology.
I never thought I would do this in my life; this is certainly not something I want to do. Yet, there is no option but to write this post because otherwise, the recent paper by Carraro and Altermatt (2022) invalidates my past research (and any research in scale invariance) and future work for unfair reasons. I posted full mathematical details as a preprint here (including the re-analysis of their data)....
Package tidyverse patchwork sf/raster/stars/exactextractr whitebox Shortcut Code block label (Ctrl + Shift + R) Multi-line (un)comment (Ctrl + Shift + C) Pipe (Ctrl + Shift + M) Package tidyverse データ整理や図表作成に有用なさまざまなパッケージをまとめたもの。もはやこのパッケージなしにはRを使えない。とくにdplyr およびggplot2 に含まれる関数群にはお世話になりっぱなしである。このあたりの関数の使い方はWeb上にあふれているので割愛。dplyrであればHeavyWatalさんのWebsiteが分かりやすい。ggplot2に関してはFrom data to Vizがビジュアルから入れるのでとっつきやすい。
patchwork ggplot2とセットで使うとことを想定したパッケージ(patchwork)。データフレームをグループごとにプロットする場合、facet_wrapやfacet_gridなどの関数を使うことが多いと思う。これらは非常に有用な関数なのだが、すべてのパネルで同じ構造(xとyが一緒など)をとる必要がある。しかし、論文の図を作る時、フォーマットの異なる図を横に並べて一つの図としてまとめたいことも多いと思う(例えば散布図と箱ひげ図を並べる、など)。そんなときに役立つのがpatchworkである。このパッケージを使うと、複数のggplotオブジェクトを好きなように配置できる。irisを使って例を下に示す。
pacman::p_load(tidyverse, patchwork) # scatter plot g1 <- iris %>% ggplot(aes(x = Sepal.Width, y = Sepal.Length, color = Species)) + geom_point(alpha = 0.3) + theme_bw() # box plot g2 <- iris %>% ggplot(aes(x = Species, y = Sepal....
一見、線のようにみえる川ですが、上から俯瞰すると様々な川が合流を繰り返し、まるで樹木のような形をした「水系網」を作り上げます。その成因について、地形学や水文学の観点から長く研究されてきました。一方、この水系網の樹状形は、そこにすむ生物の成り立ちとどんな関わりがあるのでしょうか?
オーストラリア中央部にみられる樹状の水系網。 Photo Credit: Google Earth https://www.google.co.jp/intl/ja/earth/
ここ数年、私はこのテーマにかかわる研究を進めて来ました。その結果、水系網の分岐構造が複雑になるほど、(1)そこにすむ生物の集団はより安定的に維持され(Terui et al. 2018, PNAS)、(2)流域全体の生物多様性は高くなり(Terui et al. 2021, PNAS)、(3)さらには食物連鎖の長短にまで波及する(Pomeranz et al. 2021, preprint)ことが分かってきました。複雑な水系網では環境が多様なため、さまざまな生物を支える基盤が整っている、というのがおおざっぱな説明です。手法としては、自然界で起きているであろう生物と環境の相互作用を数式として記述し、そこから導かれる予測を現地データで検証しています。
いまになって論文化していますが、これらの発想はいずれも、博士課程在学時(2011-2014年)に川を泳いでいるときに思いついたものです。私の博士課程の研究は、川にすむカワシンジュガイという生物の空間的な分布を調べ、その成因を探るものでした(専門的にはメタ個体群構造を調べる;Terui et al. 2011, 2014)。その過程で、北海道の朱太川を4年かけて泳ぎまわりました(合計90km)。それほどアウトドアな人間ではない私は、ひとつの流域の中にある川が、これほど多様であることを知りませんでした。泳ぎながら貝を探していく中で、いくつもの川との合流地点を通り過ぎるのですが、合流を境に急に水が冷たくなったり、逆に温かくなったり、ときには底石の感じが変わったりするのです。川によって水の由来(湧水かそうでないか、など)や石の供給源(山)が変わるからなのですが、この調査をするまで気にも留めていませんでした。このとき、多様な川が織りなす「水系網」に強い興味がわきました。水系網の複雑さは、生物多様性を支えるとても重要な要素なのでは、と(これは川をよく見ている方なら感覚的にわかっていることと思います)。
2011年の北海道・朱太川における調査。写真中央は共同研究者であり、魚類研究者の宮崎博士。
しかし、当時はこの発想を科学へと昇華させることができませんでした。なぜなら、数理モデルやビッグデータを扱う能力がなく、この感覚的な仮説を科学の言葉で表現できなかったからです。仮に私がそうした技術を持ち合わせていても、当時の知識の乏しさから生態学における適切な位置づけを与えることができず、有象無象の研究として埋もれていたことでしょう。このため、しばらくはこの発想もとに研究を進めることはできず、学位取得後のポスドク期の後半に至るまで(2014-2017年)、全く別の研究に時間を投資しました。
転機があったのは2017年です。ポスドクのプロジェクトで関わっていた研究者の方が、北海道の保護水面で20年近く魚類のモニタリングが行われていることを教えてくれたのです。このとき、長い間抱えていた妄想が現実味を帯びはじめました。このモニタリングでは、多数の流域で魚類群集の時間変化が調べられており、水系網の形の意味を調べる上でまさに理想的なデータだったからです。さらにポスドク中、以前から興味のあった数理モデルの勉強を独学で進めていたので、このころには自分でシミュレーションモデルを作れるようになっていました。水系網の研究分野では、生態学の理論的枠組みが整理されていなかったので、それならば「自分で数理モデルの枠組みを作り、そこから導かれる予測をこの現地データで検証しよう」と考えました。そこから数年の間に渡米したのですが、その後に出会ったアメリカの研究者の協力もあり、今では日米をまたがる研究へと進展しました。こうして振り返ってみると、「過去のとりとめのない妄想」と「後に全く別目的で得た研究技術」の邂逅が、最近の研究成果につながったと言えます。いつ、どこで何が役に立つのか、本当にわからないものです。(もちろん、研究の実現にあたって、私に足りない部分を補ってくれた共同研究者の方々の協力が欠かせなかったことは言うまでもありません。)
生態系の構造的複雑さに注目する研究者は世界でも数えるほどしかいませんが、今回の一連の研究が、この研究分野の発展につながればと思います。個人的には、全く別の生態系 ‐ 例えば樹木や草本の樹状構造 - でも、それらを生息場とする微生物などで似た現象が起きそう、と考えています。
理論と実証の統合 河川魚類群集のビッグデータ 生物の移動パターン +アルファ 連絡先 私の運営する研究室では、海外学振あるいは学振PD、DCの制度を利用した研究員の受け入れを積極的に行っていきたいと考えています。私の研究室では以下のような興味を持った方が特に恩恵を得られると思います。
理論と実証の統合 私の研究室では理論と実証の統合に重きを置きたいと思っています。以下のような興味をもつ人が特にマッチングがよいと考えています。(1)これまでフィールドばかりやってきたが、理論も取り入れてもっと説得力のある研究デザインを組みたい、(2)理論をやってきたが、これからは実証も見据えた理論研究を展開したい。
私がカバーしている理論研究の分野は、生態系におけるネットワーク構造と集団・群集構造の関係、食物連鎖長の制限要因、生物の移動とそれが支える個体群構造に関する理論、などですが、例えば進化的視点を取り入れられるような方が来てくれると私の視点も広がるのでとてもうれしいです。
河川魚類群集のビッグデータ 当研究室では、魚類群集の大規模データにアクセスがあります。例えば、日本の北海道全域およびアメリカ中西部において、20000点を超える場所で調査した魚類群集データ(*)を整備したものがありますので、このデータベースを利用した研究計画を立てることが可能です。時系列データに関しても、北海道であれば100地点以上における20年にわたる魚類群集の継続的モニタリングデータがありますし、昨年には共同研究を通じてグローバルスケールで時系列データを収集したデータベースも出版しています(RivFishTIME)。これらのデータのシェアを通じ、国内外の共同研究者とも積極的に議論をしていく良い機会にもなると思います。また、これらのデータを用い、理論予測の検証に用いることも可能だと思います。
*既存の文献や州政府からデータ提供を受けたものです(私もごく一部のデータは集めてますが)。貢献された方々に感謝。
生物の移動パターン データベースではなかなか得られない「生物の移動」に関するデータを現地で集めています。私の所属するノースカロライナ大学グリーンズボロ校には、サテライトキャンパス(車で20分ほど)に小河川が流れています。ここではちょうどいい種数(Sunfish 3種、Chub 2種が群集の8-9割を占める川)があり、これらの魚種の移動が何に影響されているのかを調べています。長期的なプランとしては、詳細な移動パターン(移動の個体差など)が集団動態の安定性あるいは多種共存にどう関わっているのかを追求したいと考えています。
このサイトを活かしたフィールド研究あるいは理論予測の実証などを特に歓迎しますが、ほかにもザリガニや巻貝などの生物も多数いますので、本人の興味に応じて研究プロジェクトを拡張することも可能です。そのほか、もう少し離れた場所であればもっと原生的な河川でも調査が可能ですので、時間に余裕をもって相談くだされば調整可能です。
+アルファ 補足的な要素として、私は海外学振からアメリカで就職した経歴がありますので、そのあたりの経験をシェアすることも可能です。文化的に日本とかなり異なるところが多いので、そういった意味ではサポートできるかもしれません。アメリカ国内の研究者とのコネクションづくりをお手伝いもできると思います。
連絡先 そのほか、河川-陸域の食物網のつながりや、水系網と鳥類の分布の関係などにも興味があります。もちろん、上記にないようなテーマでも、可能な限りサポートしたいと考えています。興味のある方は照井a_terui at uncg.eduまでご連絡いただけますと幸いです。
学振 渡米 現在 注釈 学振 Twitterを見ていると、学振に受かった・落ちたという投稿がタイムラインをにぎわせている。博士取得後、私は3年にわたり学振(注釈1)に落ち続け(学振PD、海外学振)、不採択の申請書ばかりがむなしくHDDに溜まっていくのがしんどかったのを覚えている(特に2015年申請時に、PD・海外ともに面接で落ちた時はかなりコタエタ)。今は幸いにも、研究室をリードする職を得ることができ、経済的にもゆとりをもった生活を送ることができている。別の形のプレッシャーも大きいのだが(今も4年後のテニュア審査に通らないとぷー太郎に逆戻り)、勝負の土俵に上がれているだけポスドク時(注釈2)の得体の知れない不安よりはマシかもしれない。「このまま何にもなれずに終わるのではないか」という、あれ。
2014年2月、学振に落ち行くアテのなかった私は、某研究室に弾丸出張を行い、(頼まれていもいない)セミナーをしてきた。その結果、温情処置で雇ってもらえた。この時、この研究室に雇ってもらえていなかったら研究者の道をあきらめていたと思う。プロジェクト雇用にもかかわらず、大枠さえ抑えていれば自由に研究をさせてくれ、研究環境という意味においては学振以上だったと思う(自分の業績の9割はこのころのアウトプット)。今の研究も、このころの人脈や経験がベースになっているものが多い。本当に楽しかった。
しかし、もともと予算のないところに無理を言ってねじ込んでもらっていたので、経済的ゆとりがあるわけではなかった(決してこのことに文句を言っているわけではないです)。やる気でなんとかなると思ってたのだが、やはりお金は大事だった。お金がなくなると、人間の本質がでる。自分の場合、まず相手のことを考えれなくなった。何よりも先に家計簿が頭をよぎる。家計簿基準で判断するようになり、本質的にもっと大事であったはずのものを切り捨てたりする。そういう精神状態の中、「いくつ論文を書いたら十分なんだろう」という答えのない疑問が頭の中をめぐり、気が付くと「論文」と独り言をつぶやくようになっていた。申請書は通らない。研究が楽しいからやっていたのか、研究者になるために研究をやっているのかわからなくなる。研究が楽しくなければ、研究者になる意味などないのに。2015年冬、同年に学振PDと海外学振に面接で落ち、これでもかというくらい落ち込んだ時期があった。その話を実家に帰って兄に話すと、軽い笑い話にされたのも「いい思い出」だ。
このころ(27 - 30歳)、友人たちの結婚ラッシュの時期でもあったけど、式にご招待いただいたにもかかわらず、ほぼすべて断ってしまった。ほんとごめんなさい。行きたかったけど、行っていたら次の月に食べるものがなかった。体裁を気にせず親に頼るという選択もあったかもしれないが、両親は私が学部生のころから年金暮らしだったので、さすがにそのお金を食いつぶすことはできないと思った(ただ、一度だけ本当にどうしようもなくなり親に10万円借りた;情けない)。幸い、生態学の分野で研究していると、山菜や釣りで自給自足する仙人のような人が必ず周りにいる。ポスドク3年目の春、車検による経済破綻を経験したが(食料を買う金がない)、友人が行者ニンニクとエゾエンゴサクの取り方・食べ方を教えてくれたことで食に困ることはなかった(+釣り)。もう一度、彼と山菜を取りにいきたい。
渡米 2017年、3度目の正直で海外学振に採用され、4月から渡米した。給料の高さに脱力する(それでも会社勤めの人からしたら普通かそれ以下;社会保障皆無)。このころには論文の「数」は十分と思える程度になっていたが(たしか主著8+共著9)、「これだ」と自分で思える業績はなかった。なので、経済・時間ともにゆとりのあるこの学振期間に(さながらスターをとったマリオ;最強だが期間は短い)ガツンとした論文を出せなかったら研究者の道はあきらめようと自分ルールを決め、二つの研究に焦点を当てて時間を費やした(数は捨て置いた)。また、先輩研究者を見ていると、大学の常勤職(つまり、助教以上)につくと、野外調査に割く時間はほとんどないように思えた。なので、このころに理論研究もできるようになっておいてたほうがいいと思い、シミュレーションモデルを自分で作れる程度のスキルを磨くことにした。ミネソタ大学の受け入れ研究者が人格者であったことも幸いし、いくつか自分の代表作と思える論文を出すことができた。この段階で初めて、「テニュアトラック(*注釈3)に応募しよう」と思えるようになり、ヨーロッパ・アメリカ・日本のポジションに応募し始めた。海外のポジションは難しいだろうと思っていたが、結局日本のポジションにはすべて落ち、アメリカの大学だけが採用してくれた。人生何が起こるかわからない(ちなみに当方、30歳でアメリカにくるまで海外在住経験はない)。
現在 今度は研究資金獲得の争いの中にいる。その不安を前に向かう力にうまく変換する思考回路を身に着けたい。幸せか?と聞かれれば、確かに幸せだ。研究を続けられる立場にいるし、これこそ自分が望んでいたものだ。けれども、その代償となった別の何かを想像し、複雑な気持ちになることがある。器用ではない自分は、「これは必要な犠牲」と言い訳をしながら前に進んできた気がする。それが単なる言い訳であったことに気付くころには時すでに遅しなわけで。
注釈 *注釈1「学振」 日本学術振興会が行っている博士号取得者向けのフェローシップ(学振PD、海外学振)の通称。学振PD では国内の研究者に受け入れてもらう形で、3年間自身の研究アイデアをもとに自由な研究活動を展開するための給与と研究資金が与えられる。一方、海外学振では、海外の研究者を受け入れ先として2年間自由な研究活動を展開するための給与が与えられる。いずれも競争率が高く、私のときは学振PDの採択率が10%を切っていた。
*注釈2「ポスドク」 博士課程を終えた人たちが就く任期付きの職。通常2-3年任期で、次の職の保証は一切ない。研究室の長がとってきた研究費で雇ってもらう場合、自分で学振などの予算を確保する場合がある。前者はプロジェクトのタスクをこなすことになるので、後者に比べて自由度は低い。
*注釈3「テニュアトラック」 終身雇用(テニュア)の可能性がある研究職のことをさす。このポジションをとる過程がもっとも競争が熾烈で、「ポスドク」から「テニュアトラック」に変身すると狂ったように喜ぶ。採用から5年後に審査があり、審査に通ればテニュア、落ちれば解雇。この段階では、論文数、発表雑誌、外部研究費獲得額が主な審査対象となる(+授業評価、学内委員など)。
我々日本人が学術論文を発表する際、誰にとっても大きな障壁として立ちはだかるのは「英語」であると思う。少なくとも私の分野では、研究成果は英語論文として国際学術誌に発表しなければ研究業績としては評価されない(職に応募する際に、競争的になれないという意味)。もちろん日本語で論文を書くほうが意味をなすことも多いが(生物多様性保全の分野など)、若手がそれをやると職に就けずに路頭にさまようことになる。しかし、私を含め多くの学生は大学院に入るまでそんな事実など知らないし、私も修士課程に入学当初、ポスドクの人が英語で論文を書き上げているのをみて仰天した覚えがある。絶対できないと思った(実際やればできるのだけど)。この問題は経験を積むにつれ解消される部分もあるが、やはり英語を母国語とする人の文章にはかなわないところは当然ある。論文を投稿し、内容の新規性は認められつつも英語の拙さを理由にリジェクト(掲載不可)されることも確かにある。先日、このことを差別として強く批判する内容がMLに流れており、それをみて思うところがあったので書き残しておこうと思う。
先に述べた「論文英語の差別」問題と必ずしも同じではないが、海外に住むと言語による疎外感、差別感を感じることは少なからずある。私は2017年からJSPSの海外学振の制度を利用してミネソタ大学に2年と少し在籍し、2019年の8月からはUNC Greensboroで働いている。渡航前から多少は英会話に慣れておいたつもりではあったが、やはり現地で支障なく生活するには遠く及ばない。4年目を迎えた今でもコミュニケーションがうまくいかないときがある。こういう時、相手を気遣いながら会話をしてくれる人もいれば、あからさまにめんどくさがる人、なかには嘲笑の笑みを浮かべながら話してくる人もいる。大体後者に真に優秀な人はいないので、そういう人とは単にお付き合いしないようにすれば済む、、、とも思えるのだが、そういう人が部署の要職についていたり、研究資材のお得意先だったりすると非常に困る。耐えるしかないのだ。
と、ここまでであれば単なる「海外生活って大変だよね」という話で終わる。しかし、この経験を踏まえたうえで自分が日本にいた時の経験を振り返ると、とても恥ずかしい気持ちになる。日本の大学にも他の国からくる留学生が多いが、彼ら・彼女らの立場になって何が大変かを考えることができていたかどうかというと、全くできていなかった。自分が米国に来た時、ただ運転免許証をとるだけでもやたら難しく感じたし、車の路上トラブル時にきちんとAAA(米国版JAF)を呼べるかどうか、病気になったら病状をきちんと説明できるかどうか、床屋できちんと「短めでお願いします」といえるかどうか、税金の手続きは…あげればキリがないが、あらゆることに形容しがたい不安が伴う。「当たり前」が「当たり前でなくなる」ことに対する不安なのだと思う。これは経験して初めてわかる類のストレスである。私の場合、言語が英語なのでなんとかなる部分が多いが、日本に留学してくる人は日本語で対応しなければならないし、書面も日本人にすら不可解なものも多い。こうした中で、留学生の人たちがどう耐え忍んでいるのか、想像するだけでもつらい。日本人の留学生への理解度についてみても、米国のそれよりも遥かに劣っているだろう。いつぞや、日本語が話せないまま運転免許試験を受けにきた中国人がおり、その人が日本語を理解できないのをみるにつけ、「これだから、、、日本語できるようになってから来てくれないと困るねぇ」と厭味ったらしく罵声を浴びせた試験官がいたこと思い出す。私が仮に米国でこんなことを言われたら、間違いなく死にたくなる。
話を元に戻すと、先の「論文英語の差別問題」には、この要素が大きく関与していると思う。英語話者の人たちは、非英語話者がどういう英語環境に置かれているかのまったく知らないのである。ある時、日本人の大学院生は論文英語の読み方から指導が始まる、みたいのことを飲み会で話したら、同僚は腰を抜かすほど驚いていた。それほどまで言語の壁は大きいということに、英語話者は気づいていない、あるいは知る機会がない。これはうえで述べたように、「日本から出るまで海外で住むことのつらさをまったく想像できなかった」のと一緒で、経験しないとそのつらさはわからない。
被害者側になると、いかにその問題が大きなものであるかを認識することができるが、する側に「そんなつもりはない」ことが多い。「論文英語の差別問題」を考えるとき、この問題意識の改善から行っていかないと、根本的な問題の解決にはつながらない。つまり、英語話者に、英語の通じない国で長期生活してもらうくらいのことをしないとわかってもらえないと思う。だからこそこの問題は根深く、いつまでたっても改善しないのではなかろうか。だからといってこの問題を放置していいとは思わないが、自分たちが一方的な被害者であることを主張するくらいならば、今一度、自分がしてきたことを振り返り、そこから改善策を探るというのも悪くはないのかもしれない。なにも思いつかないけれど。
UNC Greensboroに異動してから3か月がたち、モノがわからないなりに何とか回している(と信じたい)。最初のセメスターはラボの立ち上げということでTeaching offになっているのだが、結局代行などでちょこちょこ教壇に立つ。手探りで授業をしてみると案外できることがわかり、次のセメスターも何とかなりそうだという感覚が得られつつある。しかし、ラボスペースの改修工事が遅れに遅れ、やっと10月の終わりに荷物を運びこんだ。この段ボールの山を整理しなければならないと思うと気が滅入る。
さて、現状はこんな感じなのだが、この数か月の間で「日本の閉鎖性」を改めて感じさせられることがあった。今回この研究室を立ち上げるにあたり、日本と海外の繋がりの要になるような場所を作りたい‐そんな風に考えていた。日本の人材を学生やポスドクという形でリクルートし、国際交流の活発なラボにできればと妄想していたのである。しかし、この考えが甘いということにリクルートし始めてから気づいた。そう思った経緯を書き残しておきたい。
そもそも、なぜ日本人のリクルートを頑張りたいと思ったかというと、理由は二つある。一つ目は、日本人が平均的に見て能力の高い人材が多いこと(特に数学)。二つ目は、自分自身「海外に行きたい」と強く思いながらも、キッカケが作れずに思い悩んでいた時期が長かったので、そんな人の手助けになる場所にしたいということがあった。マヌケな私は、「博士課程の学生、あるいはポスドクとして人材をリクルートすればよい」-そう単純に考えていた。アメリカ向けのMLやJob Boardだけでなく、日本向けのMLにも情報を流して応募を待った。博士課程の学生については、アメリカ国内だけでなく、ヨーロッパやアジア諸国からも応募があった。しかし、日本からの応募はないどころか、問い合わせすらなかった。
単純に、海外に行くのに日本人PIのラボで研究するなんて、ということだったのかもしれない(あるいは私があまりに魅力がなかったか)。しかし、もしこれが海外進出に対する日本人の姿勢を少なからず反映しているとしたら、それはとても残念な状況だと思う(以後、そう仮定して話を進める;異論は認めない)。むやみに海外に出たほうがいいとは思わないが、「海外も視野にいれて進学先を選んだほうがいい」のは真実だろう。なぜなら、海外のほうが日本より優れている点は多々あるし、学生の内に海外に出るほうが人脈形成の点からみても利点が多いからだ。例えば、アメリカの大学院のプログラムは給与を支払うのが一般的なので(私の大学では$25000/y+学費免除)、経済的な面で言えば日本の博士課程よりもよっぽど心配がない。そのほかにも、学生時代の繋がりはその後の人生を非常に豊かにしてくれると思う。私は30歳でポスドクとしてアメリカに来たけれども、やはり学生時代にしかない感覚があるように思う。
どうして、日本の学術界はかくも閉鎖的なのか。上に書いたことと矛盾するかもしれないが、たぶん、日本の学術界は「十分優れている」のだと思う。要するに、海外に出ずとも研究成果を世界に向けて発表することは可能であるし、(競争があるとはいえ)他のアジア諸国に比べれば研究職は多い(はず)。個人の努力と才覚次第では、NatureやScienceも十分狙えるのだ。ふと、こう思うこともある。「著名な学術雑誌にいい論文を発表することに特化する」、これも一つの戦略なのでは、と。
しかし、私が一番研究をしていて「楽しい」と感じた瞬間は、「その研究、面白いね」と生い立ちも使う言語も違う人から言われた時だった。ああ、これまでの人生で全く接点がなかったのに、同じものを見て面白いと思えるんだなぁ、と。そもそも、研究の根幹には「客観的知識・知見の共有」があり、それはコミュニケーションに他ならない。「いい雑誌に論文を載せる」という「作業」に特化したとき、そこに研究することの楽しさがどれだけ残されているのだろうか。日本の研究の質は高いし、面白いと思う。しかし、何か「日本が置き去り」にされている感覚がぬぐえないのは、母国語以外で研究成果の共有を強いられる中で、研究の「コミュニケーションツール」としての機能が損なわれた部分があるからではないだろうか。閉鎖的な大学や研究環境を改善しない限り、こうした傾向は強くなるのは確かだろう。それがいいことなのか、悪いことなのか、私にはわからない。ただ、いたい場所かと問われると、それはどうなんだろうと思う。